例年にない猛烈な暑さの中、発掘作業にあたられている皆様、本当にご苦労様です。
掘りさえすれば 「それなりの遺構」 が出てくることがわかっている場所での発掘とはいえ、実際に出土した住居跡を見るとやはり心に響くものがありました。
およそ 50 年前、信越線(当時は国鉄)の複線化計画に踊らされて、この遺跡は緊急試掘されました。実際に発掘されたのは現在掘られているところよりも 50m 以上東の果樹園が主だったようですが、切妻造りの建造物跡が二棟確認されています。ともに西北から南東に延びていて、西側がやや大きく桁行4~5間、梁間2間、東側が桁行3間以上、梁間2間とあります。平安時代前期としては注目すべき大きな建造物です。
陶硯の欠片が見つかった区画もありましたし、今年発掘されている区画付近からは弥生期の住居跡も複数出ています。
三才田子遺跡からは 「たいしたものは見つかっていない」 と上から目線で断言している 「専門家」 が複数いますが、彼らはいったい何をどう調べたのでしょう? 試掘しかされていない遺跡であるにもかかわらず、これだけのものが確認されているのにです。
試掘後に本格的な発掘がなされなかったのは、当初の複線化計画が頓挫してしまい、費用を負担するはずだった主体がいなくなってしまったからに過ぎません。
ただ残念なことに、文化財調査が一般化する以前、明治 21 年に信越線が遺跡中央部を掘削して敷かれてしまったため、遺跡の全体像をイメージすることが難しくなってしまいました。山裾から南東に開いた小高い台地には駅家をはじめ、郡衙が建てられていたとしても何の問題もない十分なスペースがあるのですが、二分されているために西側のみを見て 「なんか、狭い」 という印象を持ってしまう方もおられるようです。
今年度の発掘は8月中旬までのようですが、来年度以降も順調に発掘が続けられ、さらなる成果がもたらされることを期待してやみません。
Tokiomi