歴史

三才

 

 「三才 (三歳)」 が記載されている最古の史料は、鎌倉時代最末期の 『上諏訪造宮帳』 です。東京大学史料編纂所が公認している根本史料の一つで 「嘉暦の諏訪文書」 とも言われています。執権・北条高時の時代のものです。

  嘉暦四年 (一三二九年) 三月
  外垣 一間  三歳狩箱
  池廊三間六坪 北南駒沢之役也


 「三歳」 は三才、「狩箱」 は金箱、「北南駒沢」 は上駒沢と下駒沢です。いずれも現在でも使用されている古里地区の地名です。天正六年 ( 1578 年) の諏訪文書にも 「飛嶽、南駒沢、北駒沢、徳長、三歳、狩箱」 が記載されています。「飛嶽」 は富竹の当て字、「徳長」 は後に富竹に吸収合併される集落名です。
 古文書に 「散在」 「三財」 という当て字が使われている例があることから、現在の茨城県常陸太田市三才町のように 「 sanzai 」 と発音されていた可能性も考慮する必要があるかもしれません。
 当時、犀川以北では有数の大きな集落だった三才を 「散在」 とは随分と失礼な言いようもあったものですが、「散財」 でなかっただけましとするべきでしょうか。

March 12, 2015

 

 「どこまで遡れるか」 を書きましたので、次は当然 「どこまでしか遡れないのか」 ということになります。
 この場合、「三歳」 がどのように読まれていたのか (正確には、どのように訓を付されていたのか) が決定的に重要な鍵になります。しかし、残念なことに、それを明記した史料は見つかっていません。
 なので、二つのパターンを考えてみます。

 A. 現在と同様に 「 sansai 」 と音読されていたか、あるいは 「 sanzai 」 と読まれていた場合。
 B. 「 mitoshi 」 もしくは 「 mitose 」 と訓読されていた場合。

 仮に B. のパターンであったとしたら、言語学的に 「年代」 について言えることはほとんどありません。「お手上げ」 です。別分野からアプローチするしかありません。
 ですが A. のパターンならば、最大限遡っても 「平安時代末期 ( A.D.1100 年代) まで」 と時期を限定できるのです。注目すべきは 「さんさい」 の 「ん」 です。

 実は、平安時代中期まで、撥音 (ん) の表記が確定していません。撥音に該当する部分を意図的に書かなかったり、「ニ」 「イ」 「ム」 「ウ」 で表記したり、「」「」「」のような文字を用いたりしています。私たちは撥音と言えば 「ん」 しか思い当たらないので想像しにくいのですが、当時は少なくとも三種類の撥音、すなわち

舌内撥音 「-n」主に 「イ」 「ニ」 「」 で代用「善」 「陣」 「見」 「難」 「損」 「恨」 など
喉内撥音 「-ŋ」主に 「イ」 「」 で代用「経」 「冥」 「方」 「房」 「痛」 などの漢音
唇内撥音 「-m」主に 「ム」 「ウ」 で代用「三」 「品」 「厭」「 甘」 「感」 など

が意識されていて、それらをどう表記するのか、あるいは表記しないのかで揺れていたのです。「ん」 のみを表記する漢字がないということもあって、漢字を仮借した万葉仮名で書かれている 『古事記』 や 『万葉集』 には 「ん」 に相当する仮名が一つもありません。「天地」 は 「てんち」 ではなくて 「あめつち」、「丹波」 国は 「たんば」 ではなくて 「たには」、「豊後国」 は 「ぶんごのくに」 ではなくて 「とよくにのみちのしり」 でした。
 『方丈記』 の著者として有名な鴨長明 ( 1155 ?-1216 ) が書いた歌論書 『無名抄』 が 「撥ねたる文字、入声の文字の書きにくきなどをば、皆捨てて書くなり」 としているように、和歌においては 「ん」 を書かないということが 「作法」 でさえあったのです。
 「ン」 というカタカナが使用されている最古の史料は、康平元年 (1058年) に書写された 『法華経』 とされています。これがすぐに普及したのかといえば、そんな事実はなく、実際に使われるようになってきたと認められるのは 『今昔物語』 が書かれた「院政期 ( 1100 年代)」 以降ですし、ある程度普及したと言えるのは 『平家物語』 や 『古今著聞集』 が成立する鎌倉時代中期 ( 1200 年代半ば) 以降です。
 ちなみに、ひらがなの 「ん」 の初出は元永三年 ( 1120 年) 書写の元永本 『古今和歌集』 です。

 このように 「ン(ん)」 の変遷をふまえて考えると、A. 「三歳」 = 「さんさい (さんざい)」 が成立するならば、それは 『上諏訪造宮帳』 に記された嘉暦四年 ( 1329 年) を大きく遡ることは考えにくい、と言えそうなことがわかっていただけるかと思います。

 問題は、「神崎」 が 「加無佐木」、「忌部」 が 「伊無倍」 とされていたように、「三歳」 が 「サムサイ」 と訓を振られていた可能性はないのか、ということです。実際、鎌倉時代中期、親鸞が書写した 『唯信鈔』 は 「承久三歳 (承久三年、1221 年のこと)」 を 「ショウキウサムサイ」 としています。
 これに関しては、映画で某准教授たちが思い描くような 「美しい証明」 を思いつかなかったので、徹頭徹尾、地味でドロ臭い 「力業」 、つまり帰納法を使います。
 平安時代の文物を論じるときに必ず参照する史料に 『和名類聚抄 (和名抄)』 という 「辞書」 があります。源順 (みなもとのしたごう) が勤子内親王の求めに応じて編纂したもので、承平年間 ( 931-938 年) に成立しています。『十巻本』 『二十巻本』 の二系統の写本が伝わっていて、その 『二十巻本』 に 「郷里部」 と呼ばれている部分があり、全国の主要な郷名が記載されています。しかも、その多くに訓が付されているのです。
 この、930 年代当時、実際に使われていた地名群から 「三」 の使用例をリストアップして、その傾向を分析してみようというわけです。

 結果は、予想以上に単純でした。
 3,800 超の郡名・郷名から、「三」 を用いている 109 例を調べた結果。

「ミ」
105 例 
 
「サイ」
3 例 
 すべて 「三枝」
「サム (サン)」
0 例 
 
「三」 ではないものを誤記
1 例 
 「佐三」
 

 「三歳」 が、A. の 「さんさい ( さんざい )」 パターンであったとしたら、平安時代中期まで遡れる可能性はほぼゼロと考えていい、ということです。
 仮に、当時 「三歳」 という地名が使用されていたとしたら、B. の 「みとし (みとせ)」 パターンであった、ということにもなります。使われていたら、ですが。 

 

 あなたは 「 sansai 」 派? それとも 「 mitoshi 」 派?

 私?
 私は AKB48 派、じゃなくて 「 A ↓ B 」 派です。 …… (^_^;)
 これについては、次回、お話しさせていただきます。

 

   参考文献   山口謠司        ん         新潮新書
          山口仲美  犬は「びよ」と鳴いていた    光文社新書

July 1, 2015

 

 三才には、古代の官道・東山道駅路 (以下、東山道)の 「支道」 が通っていて、多古駅家がおかれていました。
 『延喜式』 「諸国駅伝馬」 は、「錦織 (にしこり、旧・四賀村)」 の北で分岐して越後国 (上越市方面) へと抜ける 「支道」 の駅家として、「麻績、日理、多古、沼辺」 の順で駅名を記しています。先にふれた高山寺本 『和名類聚抄』 にも 「日理」 を 「日里」 としている以外は同様の記載があります。

 「麻績」 は、現在の東筑摩郡麻績村と考えて問題ないでしょう。
 「沼辺」 は、現在の古間から野尻湖付近 (最有力とされているのは野尻湖西岸) と考えられています。
 「日理 (わたり)」 は、「渡り」 すなわち川の渡し場ですから、地形と川筋の変動、そして麻績駅家からの距離を考え合わせるならば、犀川の南岸、現在の青木島から塩崎にかけてのどこかにあったと見るべきでしょう。( 『更埴市誌』 は篠ノ井の布施五明から岡田付近を想定しています。)
 とすれば、「多古」 は 「北田子」 「南田子」 の地名が残り、まさにその地名の場所で複数の大規模遺跡 (三才田子遺跡、籠沢遺跡など) が発掘されている三才ということになります。「日理」 「沼辺」 両駅家との距離も適切です。
 長野市が配布しているハザードマップを見ていただければ一目瞭然なのですが、三才地区西北に位置する 「北田子」 「南田子」 はともに千曲川の氾濫に関してはまったく水没の危険性がない場所にあります。田子川をはさんで隣接する籠沢遺跡 (縄文中期から平安時代にかけての、とても大きな集落跡) も同様です。河川の氾濫で水没することがない安全な地に駅家 (駅) がおかれることは、今も昔も変わりません。

 『延喜式』 は 927 年に成立しています。『和名類聚抄』 の成立は承平年間 ( 931-938 年) です。両者は同時代の史料です。
 前回、「三歳」 が 「さんさい」 と読まれていたとすれば、平安時代中期までは遡れないと書きました。ならば、平安時代中期、三才の地は何と呼ばれていたのでしょうか? 「御歳(みとし)」 でしょうか?
 いいえ、三才は 「多古」 と呼ばれていたのです。
 そして、この 「多古」 こそが 「さんさい」 の直接の起源だと考えられるのです。
 鍵は 「くずし字」 です。

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 それぞれ 「多」 「古」 と書かれているのですが、「さんさい」 と読めてしまうケースを容易に想像できるかと思います。画像は東京大学史料編纂所のデータベースにある書体を写させていただき、大きさを揃えて 「2階調化」 しました。
 難点は、くずし字書体の必然なのですが、必ず 「さんさい」 と読めるわけではないということです。そもそも 「多古」 なのですから、当然と言えば当然です。
 逆に大きな利点としては、今までまったくと言っていいほど説明ができていなかった 「多古(多胡や田子ではないことにご注意ください!)」 から 「三歳」 への変遷を容易に説明できることです。

 さらに、上右の 「多古」 にご注目ください。「みのち」 とも読めます。「ひらがな」 や 「カタカナ」 が成立する以前から 「水内」 という地名は存在しているので、「多古」 から 「水内」 が派生することはありえません。ですが、「水内」 に 「三乃知」 と訓が付され、そのくずし字から 「多古」 や 「三才」 が派生した可能性は大きいのです。

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 左から 「水内」、その訓として 「三乃知」、そして 「多古」、「三才」 です。
 「多古」 は 「さんさい」 の起源であり、なおかつ 「水内」 であった可能性も検討されるべき古名なのです。
 善光寺の門前、後町付近にあった鎌倉幕府の政庁を、ほとんど根拠がないにもかかわらず 「水内郡衙」 とイコールで直結した説が現在も多数派を成しているわけですが、別の可能性、すなわち水内郡の中枢が想定よりも北にあった、あるいは端的に三才にあった可能性を一度は真面目に考えてみてはどうでしょうか。
 全国的に一つの郡内に複数の地方官衙が併存する例はたくさんありますし、郡衙と駅家が同所にある例もかなりあります。郡司には、担当する駅家において駅長とともに直に逓送業務を監督する職務もあったので、作業効率を考えれば当然の帰結です。在所が不明な郡衙を推定する時、まず考えなくてはならないのは駅家の所在地であることは明白なのです。にもかかわらず、ほとんどの学説が今現在の長野市の姿を安直に敷衍し、主要な施設を手当たりしだい善光寺直近に想定してしまっているのです。善光寺信仰が急速に全国区になっていったのは、平安時代末期、末世思想が猖獗を極めて以降のことに過ぎません。東山道駅路にしても水内郡衙にしても、それらが主題となるのは、より前の時代、平安時代中期以前のことなのです。考えてもみてください。江戸時代でさえ、北信濃の政治的な中心地は中野であり、善光寺周辺ではありませんでした。

 全長 47m の前方後円墳である三才一号墳
 三才山山頂に位置する直径 20m の円墳・三才二号墳。
 隣接する南郷区の円墳・虚空蔵山古墳。
 現在は西三才区になりますが、直径 20m の円墳・大塚古墳。
 長野県全体でも有数の大集落遺跡である籠沢遺跡。
 500 点あまりの壺や高坏などが発掘された駒沢祭祀遺跡。
 そして、それらの中心に据えて考えるべき極めて重要な遺構こそが三才田子遺跡 (多古駅家) なのです。ここが正当な位置づけをえてこそ、「水内郡」 の、あるいは北信濃の古代史は初めてその可能性を展開するための 「第一歩」 を踏み出せることになるでしょう。

August 7, 2015

 

 この際ですので、上駒沢の駒沢祭祀遺跡についてもお話しさせていただきます。
 埴科郡衙と屋代遺跡群という例が示すように、郡衙と湧水地での祭祀遺跡が一体として存在する例を考慮するならば、三才多古遺跡、籠沢遺跡と近接する駒沢祭祀遺跡の性質も再考する必要があります。この遺跡は本当に 「農耕祭祀遺跡」 なのでしょうか?
 当時の産業形態からして 「とりあえず、農耕祭祀」 としておけば大ハズレはないのですが、湧水地跡の周辺から 500 点にも及ぶ壺や高坏が出土し、勾玉、鏡を模した有孔円板、剣形など三種の神器を連想させるものや、祭祀に関係したと思われる複数の遺物が出ています。より政治色の濃い祭祀を想定してもいいのではないでしょうか。
 この地に大きな地方豪族が存在したからこそ、官道・東山道が通り、駅家や郡衙が置かれた、という政治的な要因も否定しきれないように思うのです。
 時代は若干前後しますが、すぐ隣には平安期の仏像の鋳型が出土した駒沢新町遺跡もあります。合わせて検討されるべきでしょう。

August 7, 2015

 

sakura '15_4

2 Comments

  1. アバター片山 泰

    金箱家の一人お嬢様との婚儀にあたり、三才駅で降りて、二人で金箱神社に詣でました。
    (三才駅は、帰りだったかも。)
    祭祀権継承のため、私が婿入りして金箱姓へ。
    と思っておりましたら、金箱のおじい様に、兄上のいらっしゃった事が判明。弊家でお嬢様を頂きます。
    今、幣家の母に、婚姻届けの証人欄の自署捺印してもらった帰り。横浜で偶然「金箱」の表札を発見。
    「狩箱」であった由。古に思いを馳せ、お嬢様を大切に守って参ります。

    Reply
    1. TokiomiTokiomi (Post author)

       長年、「独身主義」 と交際してきたせいで、今さらやつをすてるに忍びなくなってしまった私が言うのもなんなのですが、お幸せに

       ちなみに、地名で使用される 「箱」 は、川などで区切られた 「四角い土地」 という意味があるようです。

      Reply

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