区有文書の虫干し・閲覧会 ’18

 

 7月8日、三才区有文書の虫干し・閲覧会が行われました。
 今回、話題になったのは水利関連の絵図です。残念ながら制作年代不明なのですが、興味をそそられる部分が複数ありました。

 青い矢印で示した部分、現在は駒沢川と呼ばれているところなのですが 「徳間川」 と書かれています。矢印の右側にも 「徳間境」 とあります。
 確認したところ、昭和30年代、新町団地が造成・整備された頃までは普通に使用されていたようです。

 緑色の矢印で示した部分、「里方山道」 であるならばとても気になります。どう考えても山道ではなく平坦な道が、なぜ 「山道」 と呼ばれていたのか気になりませんか?
 これが 「山道」 の 「里」 を通る部分という意味だとしたら、「山道」 は単なる 「やまみち」 ではなく、「さんどう」 もしくは 「せんどう」 と呼ばれていた名残と考えることが可能です。
 江戸時代の北国街道を例に出すまでもなく、主要な街道はしばしばルートが変わります。いにしえの東山道駅路もまた、善光寺繁栄のあおりをうけてルートが変わった可能性があります。亘理 (わたり) 駅家から多古駅家まで、ほぼ直線に近かった当初のルートが、善光寺を経由する西よりのルートへと変わっていったと考えるわけです。
 三才区には、飯山街道 (北国街道の当初のルート) と 「里方山道」 の合流地点に字 「道間」 という地名があります。「三才には道に関する地名がないので、東山道駅路は三才を通っていなかった」 という意味の主張をしている 「専門家」 や 「大御所」 がいますが、現地調査に来たことがないか、ものすごくずさんな調査しかしなかったことを白状しているようなものでしょう。
 「里方山道」 と 「道間」、合わせて考えるとわくわくしてきます。

 紫色の矢印は、個人的に最も衝撃的だった部分です。三才区の東、浅川までの地 (上駒沢字三才) に、実際に人家が複数あったなんて、話に聞いたこともありませんでした。隣接する三才区側の字が 「古屋敷」 なので、付近に住居があったらしいことはなんとなく理解していたのですが、まさか上駒沢の飛地にも人が住んでいたなんて驚きです。

 

July 12, 2018